高校入学式 式辞

「もう一人の自分」を持つ  祈りとメタ認知の伝統

新入生の皆さん。

皆さんは「メタ認知」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは簡単に言えば、「自分の考えや行動を、一段高いところから客観的に見つめる力」のことです。「今、自分はなぜ怒っているのか」「なぜこの問題を解くことが出来ないのか」と、自分自身を外側から観察する「もう一人の自分」の視点を持つことです。

高校入学の新入生にとって啓明の建学の精神であるキリスト教にまだ馴染みのない人もいるとは思いますが、実はこの「メタ認知」は、これまで西洋思想、そしてキリスト教が長年にわたって積み上げてきた、人間が人間であることの土台として大切にしてきたものでした。

キリスト教の伝統として、そのメタ認知の最たる訓練の場は、「祈り」でした。祈りとは、単に神様に願い事をすることではありません。特に一人で神に祈るということは全知全能の神という「絶対的な他者」の眼差しを意識しながら、自分自身の内面をさらけ出し、対話することです。

「神様、今日、私は友人にひどいことを言ってしまいました。それは自分の心のなかにあった傲慢さのせいです。私は今、深く後悔しています」

このように祈る時、人は自分を客観視し、自分の弱さを認め、どうあるべきかを深く考えます。これは、極めて高度で、かつ痛みを伴う「精神の訓練」としてのメタ認知です。

西洋の近代的な人間観は、この「神の前に立つ個人」という孤独な自己対話を通じて育まれてきました。自分を律し、自分の思考を疑い、より良き存在へと自分を導こうとする、この「内なる葛藤」こそが、人間を人間たらしめる、鍛錬であったのです。

 

AI時代の危機 便利さの影で失われる「精神の筋力」

一方で、これからの未来を生きる皆さんの隣には、常にAIがいる時代となりました。分からないことがあれば瞬時に答えを出し、迷えば選択肢を提示し、自分が何を好み、次に何をしたいのかさえ、先回りして予測してくれる存在です。私自身もそうですし、多くの人が仕事やプライベートで利用して、最早なくてはならない存在であることは間違いないでしょう。ただ、そうした中で危惧されていることの一つに生成AIの無自覚な利用によって、私達がこのメタ認知という、人間にとって大切な精神の筋力を手放してしまうのではないか、ということです。

生成AIは非常に便利なものですが、その便利さはたびたび私達が自分で考え、悩み、自分を省みるプロセスをショートカットしてしまいます。例えば読書感想文の課題が出てもそれをAIにやらせると、瞬時にそれらしい物ができます。しかし、そこには自分がどう感じたか、ということを反芻する時間は存在しません。 むしろ読まなくても完成させることができてしまいますね。そこには正しい文法を使うスキルや、どんな言葉をチョイスすべきかというセンスを磨く経験もありません。

またしばしば私達の時間を奪おうとするSNSのレコメンド機能に従って次々と挙がってくる動画を見続ける時に、なぜ自分はこれを見ているのか、というような自己対話は存在しません。

自分が指示を出して生まれてくる文章や成果物はそれなりに自分の思考を反映させたものになるかもしれませんが、そこにある「自分らしきもの」を自分自身だと勘違いするようになるのであれば、やがては自分の人生の舵取りさえも、無自覚のうちにアルゴリズムに明け渡してしまうのではないかと考えてしまいます。

今、啓明学院で行っている礼拝や祈りの時間は、静かに神様と向き合う時間ですし、しばしば自分の内にある願いを通して、本当の自分は何者かと見つめる大切な時間です。また文章を書く、問題を解く、作品を作る、アイデアを練るというようなことに時間をかけて取り組むことは、心の深いところにある自分自身の本質と出会い、内面を鍛える貴重な成長の機会です。

しかしそういったことを効率とか、便利さという名のもとに手放すのであれば、自分自身を客観視する「内なる眼差し」を失い、ただ外部からの刺激に反応するだけの、受動的な存在に成り下がってしまう危険にさらされるように思います。

 

「答え」よりも「問い」を  AIには真似できない知性の本質

このような時代に高校時代を始めようとする皆さんに是非、これから意識してほしいことがあります。

それは「問いを持つこと」の価値です。もちろん「答えを出すこと」は何をしていても求められることでしょうが、さらにそれを深めて「問いを持つこと」を意識の先に持ってほしいのです。

AIは膨大なデータから「正解らしきもの」を導き出すことには長けています。しかしAIには「なぜ?」と自ら問いかける動機がありません。そしてAIは自分の出している答えが「なぜ正しいのか」を人間のような意味での「納得」を伴って理解しているわけでもありません。

西洋哲学の基礎を作ったと考えられているソクラテスは「無知の知」を説きました。自分が何も知らないということを自覚することこそが、知恵の始まりであるという教えです。これもまた高度なメタ認知です。キリスト教の信仰も、自分の限界を知り、神という自分を超えた大きな存在を認めることを伴うものです。

「私はまだ何も分かっていない」「私のこの考えは偏っているのではないか」

こうした自分を疑うことや、自分の足りなさを自覚し、その空白を埋めるために祈り、学ぶ。この泥臭く、非効率なプロセスの中にこそ、AIには決して到達できない「人間の知性」が宿るのです。

 

啓明学院での3年間  AIを使いこなし、確固たる自己を創る

新入生の皆さんはこれから3年間、この啓明学院で多くの学びや経験をすることでしょう。時にはテストの成績に追われることがあるかもしれません。しかし忘れないでほしいのは啓明の学びは「情報」を蓄積するためのものではないということです。

日々の授業で蓄える情報を自分自身の知識とし、さらにそれを知恵と昇華させるならば、それは皆さんのメタ認知の回路を鍛え、豊かな内面世界を作り上げていくためのトレーニングとなるはずです。

ですから数学の問題を解く時も、答えがあっているかどうか以上に、「自分はどういうプロセスでこの解き方を見つけたのか」とか「なぜここで躓いたのか」と考える癖をつけてほしいのです。小説を読む時は登場人物の感情と自分の感情を対比させてみたり、「なぜ自分はこの作品に心が動かされたのか」と考えてみてください。そして毎日の礼拝ではお話しをする人と心の中で対話しながら、自分自身と、そして神様と向き合ってください。

AIは便利な道具になりますが、人生を託すようなものではありません。AIに使われるのではなく、上手に使いこなしていくためにはAIには決して持てない「確固たる自己意識」と自分を俯瞰して見る「メタ認知の力」を磨き続けるしかないのです。先人たちが祈りや思考を鍛える経験を通じて養い続けてきた人間観を、皆さん自身も自分の弱さを認めつつ、より高みを目指すために「問いを持つ」ことを啓明での高校生活を過ごすことで身につけていってほしいのです。

もし皆さんがAIを使って楽をすることだけを覚え、難しいと思うことはすべてAIに委ねるようになってしまったら、卒業する頃には皆さんの魂はひどくやせ細ってしまうでしょう。自分の言葉を持たず、自分の感情の理由もわからず、ただ誰かに与えられた面白そうなものを消費するだけの人生は、けっして誰も望むものではないはずです。

どうぞこれからの高校時代、自分の心の動きに敏感で、他の人の痛みも自分の痛みとして感じられる、想像力豊かな人間になるためのトレーニングをしっかりやっていきましょう。そして他の誰でもない、私という自分自身を作っていきましょう。AIと共に歩む未来とは、AIに頼り切る未来ではなく、AIを上手に使って、より深く、より広く、人間の可能性を伸ばし続ける未来であるはずです。だからこそ、これからの3年間、大いに悩み、大いに考え、そして大いに祈ってください。

小さなこと、些細なこともいいので、何故そうなるのか、と問いを持つ習慣を身に着け、時にはその問いについて仲間たちと議論してみてほしい。そうすれば卒業の時、今よりもずっと深く、強い自分自身に出会えるはずです。

そしてその時に皆さんの高校生活の舞台が啓明でなければならなかった理由もきっと示されることでしょう。

そんな姿を見せてくれるその日を心から楽しみにしています。

 

さあ、その第一歩がいよいよ始まりました。一人ひとり、歩みは異なりますが、この啓明学院であなた自身でなければ歩けない道をしっかりと歩んでいきましょう。

改めて、入学おめでとう。共に新しい未来を創り始めましょう!

 

2026年4月2日

指宿 力

 

啓明学院中学校・高等学校
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