KEIMEI GAKUIN TOPICS BLOG

校長コラム

分断に抗う

2021年9月17日

兵庫県下にも緊急事態宣言が発令される中、2学期をスタートさせることとなり、我々教職員も大きな緊張感を持ちながら新学期を迎えました。やはり登校することについて不安を覚える生徒やご家庭もあるだろうと考え、9月10日までは対面授業を基本とする一方で、オンライン対応も出来る範囲で行う、ハイブリッド型で授業を実施しました。

すでに9月14日からは全て対面授業に戻していますが、緊急事態宣言は月末まで延長され、まだまだ予断を許さない状況にありますので、これまで実施してきた感染症対策を徹底し、教職員も生徒と共に意識を高め、これからも安心できる学校運営を心がけていきたいと考えています。

 

 

私は校長を務める学校教員でありますが、牧師でもあるので、時折、教会でお話しをする機会をいただくことがあります。先日もある教会にお招きいただきましたが、これはコロナ禍以降初めてのことで、久しぶりの教会での礼拝説教でした。教会でお話しをする時は、教会の年間のスケジュールに沿った聖書箇所からメッセージすることが多いのですが、今回も指定された新約聖書の「ヤコブの手紙」という文書にある箇所からお話しすることになりました。

現在、私たちが使っている新共同訳聖書は、単元ごとに小見出しが付いているのですが、お話しする箇所には「人を分け隔てしてはならない」という言葉が示されていました。この小見出しの言葉が、今の私たちの課題に大変マッチする、非常に大切なことを伝えるものとして深く考えさせられながら準備をすることになりました。

元来キリスト教は、ユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の教えを基にしています。そして、それはイエス様によって地域や時代を越える普遍的な教えとして新しく示され、キリスト教と呼ばれたその教えは世界中に伝道され、多くの地域で近代的な価値観の土台ともなっていきました。

しかし、そのキリスト教も新約聖書の時代からユダヤ教の教えをどう継承するかでもめており、ヘブライ語を使うグループとギリシャ語を使うグループの二つに分かれてしまいました。現在のキリスト教は、ギリシャ語を使うグループの教えを本流としていますが、今に至る教会内でもカトリックとプロタスタント、急進派と穏健派、社会派と保守派など対立する構造を歴史の中で重ねており、そこには多くの苦悩が積まれてきました。

そういった背景もあり、今回の箇所には「人を分け隔てしてはならない」という小見出しがつけられた文章が記されているのですが、今、私たちが直面しているコロナ禍は、私たちの間にいくつもの分断を生み出すものとなっています。ワクチンを受ける者と受けていない者、緩和方針を望む者と反対する者、感染したことをオープンに出来る者とその事実をけっして知られたくないと息を潜めざるを得ない者。

時にそれは疫学的に正しいことを越え、私たちの感情を揺さぶり、不安を募らせる原因となっているのではないでしょうか。

私たちの学校では、生徒たちも毎朝の礼拝を通して、祈り、賛美歌を歌い(今は心の中で歌っています)、聖書の言葉を聴き、教員がそれぞれ思考の火をくぐらせた奨励に耳を傾けます。そのことは今、瞬間的に効果を得ることもありますが、むしろ長い時間を掛けて一人一人の人生にじっくりと意味あることとして涵養していくものだと思います。そこに私たちが願う事の一つは、神様の前に立たされる人間として、自分自身も弱さや乏しさを抱え持つ存在であることに気づき、それに向き合う人であって欲しいということです。そして、そのような弱さを自覚する者だからこそ、他者の弱さや迷い、悩みを断罪するのではなく、それに寄り添い、共に歩もうとすることが、神様の願われている人間の生き方であることの共感を、それぞれの歩みの中で活かして欲しいと願っています。

私たちの生きる世界には様々な分断が横たわっています。啓明の生徒たちが、この学校での経験を通して、分断を越える心を養い、そのために必要な力をつけ、この世の希望の光となって欲しいと心より願っています。そして、そのために私たち教職員も心を尽くし、思いを尽くし、一致してこの時代の啓明の歩みを担いたいと願います。

 

 

指宿 力