KEIMEI GAKUIN TOPICS BLOG

校長コラム

高校卒業式 式辞

2022年2月21日

2021年度啓明学院高等学校卒業生の皆さん、卒業おめでとう。

 

入学時には考えもしなかったような高校2、3年生を過ごすことになり、社会状況に翻弄された高校時代となりましたが、それぞれの高校生活を今日の日、終えようとしてきます。皆さんの学年の一番残念なことは修学旅行に行くことができなかったことかもしれません。悔しい思いを伝えてくれた人もいますし、心残りもきっとあることと思います。

だからといって、啓明での学びがこれまでの先輩より劣るなんてことはけっしてありませんし、そのように卑下することもありません。君たち一人一人は、この未曽有の経験の中で、立派に高校生活を全うした2021年度の卒業生です。この後、胸を張って卒業証書を受け取りに来てください。

 

保護者の皆様、今日の晴れの日を共に迎えることを嬉しく思うとともに、これまで学校を信じ、お子様を託してくださり、そして、いつも暖かいお支えをいただきまして、本当にありがとうございました。折に触れ、学校に足をお運びいただき、生徒たちが与えてくれた喜びや感動を共に分かち合えたことは、何よりの幸せでした。感染状況が厳しい中、許される範囲ではありましたが、多くの方と親しい交わりも賜りましたことを、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

学年主任の内海先生をはじめ、高3学年団の先生方、今日まで生徒たち一人一人に寄り添い、励まし、共に成長の歩みをなしていただき、本当にありがとうございました。ストリーミングでの出席となった高1、高2の皆さんも、心を合わせて卒業生を送り出しましょう。最後までどうぞよろしくお願いします。

 

さて、ここに旧い「文華」があります。2001年度のものなのでもう21年前のものです。

先日、調べ物をするために読み返しました。その中にある尾﨑先生の文章に、日野原重明先生の言葉が引かれ、「感化力のある師を持つことは良書に勝る」という一節がありました。偶然にも、この文華には私の高校時代の恩師、安積 力也先生の奨励が掲載されていました。

安積先生は生徒指導担当の厳しい先生で、私が何度かお世話になってしまった先生です。また、世界史の教師として、私に新しい知識の窓を開いてくださった先生でもあります。

三つの学校の校長を務められて、すでに退職されています。全国規模のキリスト教主義学校の集まりのときに、最近までお目にかかることも多く、卒業しても繋がりをいただいている、私にとっては、まさに大きな感化を与えてくださった先生の一人です。ちょうどこの年、特別礼拝でお話ししていただいたのですが、少し内容を紹介します。

 

我々には表に出てしまう言葉と、その奥に、別の願いがある。

表に出てしまう、動物的な本音を本音と思ってはならない。

自分の思いの奥に、まるでたまねぎの皮をむくように、うんと真実な願いが眠っている。

その自分の最も深いところにある澄み切った思いに向き合うこと。

一体自分は本当のところ何を願っている人間なのか、おそれずこの問いの前に立つこと。

すべてをご存じの聖書の真の神様の前で、その問いを問い続け、見つめ続けるという、こんな大事なことを学校計画のなかに置いている、この啓明学院で学ぶ特権が皆にはある。だから自分の心の声に耳を澄まし、本当はこのように生きたいという自分自身の声をしっかりと捉えること。それは他の誰もやってくれない、自分自身しか出来ないことなのです。

 

以上です。

 

自分には隠すことのできない、弱く乏しく、利己的で、さもしい自分がいる。しかし、そんな自分自身と向き合うことは決して後ろ暗いことではなく、そんな自分の姿を見ようとするからこそ、その声を捉えようとするからこそ、目指すべき、ありたい自分として生きることができるのだ。このことは、私にとっては高校時代から触れてきた、恩師からの力強いメッセージでした。

 

私たちが人生の局面に現れる、勝ち負け、損得ばかりに気を取られるなら、勝ちたいし、得を取りたいものです。しかし、いつも、いつも勝ち続けることや得を取り続けることは無理なことです。長い人生で、思いがけない失敗や敗北感に打ちひしがれるときがあるかもしれません。

それでも、本当に自分は何を願っている人間なのか、ということに向き合うときに、今の勝者でなくてもいい。40歳50歳になったときに自分がどうあるか。80歳のときに自分がどうあるか。

自分自身の内なる声に誠実に耳を傾ける生き方の先に、良き人生が開かれる、という恩師の言葉は暖かく、非常に深いメッセージであります。

 

私は中学卒業時、第1志望の高校には受験さえさせてもらえず、輪切りの受験指導に背を向け、父の勧めてくれた中の一つだった新潟県の高校に行きました。大学受験でも志望校に入るだけの力をつけることができておらず、浪人することになりました。浪人生活中に、自分が本当にしたいことは聖書の先生になることだ、と思わされる人と出会い、その方の勧めで関西学院大学に進みました。

聖書科の先生になりたいと思っていたにも関わらず、行き先の見つからなかった大学4年生のとき、しばしばボランティアに来ていた神戸愛生園の宣教師の先生が、私の高校におられたジョン・モス先生と当時の啓明の校長モース・サイトウ先生がイエール大学の同窓であることから、二人を繋いでくださり、その縁で啓明学院に招いていただきました。そして、2001年には尾﨑八郎先生が啓明にお越しになり、深い学びとたくさんの励ましを賜り、大学で教えるチャンスや、学ぶ機会を与えていただき、今、こうしてここに立っております。

今ある自分に、どれ一つとして欠けてはならなかった出来事と出会いだと思います。

 

呼ばれ、呼ばれて、呼ばれた先に道が繋がったことに不思議な導きを思わざるを得ません。天から命じられた仕事や、その人の天性に最もあった仕事のことを天職と言いますが、これを英語ではCALLINGと訳します。私にとっても一つ一つの出来事が、神様の招きであり、導きであったと信じます。

 

これから皆さんも自分自身の物語を紡いでいくことでしょう。どうぞ出会いを大切にしてください。誠実に歩んでください。人生に必要なときに、必要な招きと導きは必ずあることでしょう。きっとその先に、それまで経験した一つ一つが意味あるものとして繋がっていくはずです。

 

そして、歩む先々で皆さんには果たすべきミッションがあります。啓明学院の卒業生としてのミッションです。

それは、その場その場で、啓明学院で学んだ者として生きるということです。

 

それは、どうお金をかせぐかということだけに価値を置くのではない生き方です。

 

人、皆はこの世に祝福されて生まれてきたということ。

暖かい日の光や川のせせらぎ、海の満ち引き、そして名も知らぬ花々や昆虫さえも神様が計画された被造物であること。

私達は世界と、他者と繋がることによって生かされて生きる喜びを分かち合えること。

何より、あらゆるものは自分と繋がっているのだということを感じ取れる力を持っていること。

だからこそ、節度と思いやりの心、優しさを携えた自分であろうとすることができること。

それらは、この啓明学院で、いつも皆さんに示されてきたことではないですか。

 

本質を捉える感性を刺激され、繰り返し自分を見つめ直すことを求められた様々なプログラムなど、啓明学院での学びの中で育まれてきたものが、きっと皆さんの心の深いところに染みこんでいることと思います。皆さんがこれから先、語る言葉や行い、優しさや思いやり、知的な学びに向かう好奇心や深い創造性の種は、すでにそれぞれの内に蒔かれているのです。

 

それらを大いに発揮して、周りの人たちに勇気と希望を与える、啓明生らしい歩みをしてほしい。それはきっと皆さんの立つ、その場をよりよいものとしていく力の源となることでしょう。

 

皆さんが出会う人に、その精神が広がっていくとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。それをなすことが、皆さん一人一人に委ねられたミッション、名付けて「世界啓明化計画」です。啓明学院を卒業するということは、このミッションを任されるということです。そこにこそ、この啓明学院で学んだ価値が輝くことでしょう。そのためにも、これからもますます学び続け、より良く生きようとすることに励んでください。

 

内なる自己と向き合うことを恐れず、自分のことばかりでなく思いやりを持ち、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く、そんな皆さんであり続けてください。皆さん自身がこのスピリットを携え、歩もうとするその先に、神様の願う世界が現れることでしょう。そんな世界を創り出すための、皆さん自身の「世界啓明化計画」のミッションがいよいよ始まります。

 

今、それを皆さんに託します。どうぞよろしく。それでは良き人生を。

 

 

2022年2月19日

指宿 力