KEIMEI GAKUIN TOPICS BLOG

校長コラム

子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう

2022年4月6日

1学期始業式のメッセージ

 

いよいよ4月となり、新学期が始まりました。すでに4月1日に入学式が行われ、新入生と中学の編入生が加わり、中学512名、高校733名、合わせて1,245名の在籍となりました。

どんな1年にしようか、と皆さんは心弾ませていることと思いますが、心残りのないよう、誠実で前向きな、啓明生らしいチャレンジ精神をもって、学校生活に取り組んでほしいと願っています。

ただ、皆さんもわかっているように、まだまだ学校でも感染症対策は必要です。基本的にこれまで続けていた感染症対策を丁寧に続けますが、皆さんにも学内での生活には十分に気をつけ、その上で安心できる学校を共につくっていきましょう。

 

さて、皆さんの春休みはどのようなものだったでしょうか。私は映画を観ることが好きなので、春休み中も家で何本か映画を観ました。「スパイダーマン」みたいな娯楽作品や「朝が来る」という日本の作品などを楽しんだのですが、その中でもひとつ、とても心に残ったものがありました。

それは「アイダよ、何処へ?」というボスニア・ヘルツェゴビナの映画です。かつてユーゴスラビアと言われていたボスニア・ヘルツェゴビナは、ずっと民族や宗教の違いを原因に、紛争が絶えなかったところです。

今から30年前の1992年から4年間、ここを舞台に、セルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人の三つの民族間で起こった紛争がありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争です。そのときに起きた実際の出来事を題材に作られたのが、この「アイダよ、何処へ?」という作品です。

タイトルにあるアイダは女性の名前です。彼女には夫と高校生と大学生の息子が二人います。もともと学校の先生で、英語を話すことができるアイダは、紛争解決のためにオランダ軍から派遣された軍人たちで編成された国連軍の通訳を任されていました。

そのアイダはボシュニャク人です。ボシュニャク人というのは、もとをたどればセルビア人とは民族的には同じです。しかし、その昔、オスマントルコがこの地を占領していたときに、イスラム教徒になった人たちがいました。その人達はムスリム人と呼ばれるようになりましたが、その人達こそがボシュニャク人で、セルビア人とは宗教が違うだけです。

しかし、「違い」は互いを分断する原因となり、4年間、ボシュニャク人はセルビア人と戦ったのです。この映画「アイダよ、何処へ」は、その紛争の末期の様子を描いています。圧倒的な武力を持つセルビア人に追われ、逃げ場所を失ったボシュニャク人が身の安全を願って、国連軍の基地に逃げ込んでいくところから物語は始まります。あまりにたくさんのボシュニャク人が集まったため、基地に入りきらない多くの人が、基地の前に取り残されもしました。結局、皆、セルビア人に捕らえられてしまうのです。

捕えられたボシュニャク人は、男性・女性・子供達に分けられてバスに乗せられます。「安全な場所に移動する」と言われるのです。しかし、結局、男性たちが戻ってくることはなかったのです。アイダの夫や息子達も例外ではありませんでした。

これは「スレブレニツァの虐殺」という、実際に起こった出来事です。このとき、なんと8,000人以上のボシュニャク人が亡くなったのです。その様子が映画では非常にリアルに描かれていました。

 

もともとはボシュニャク人もセルビア人も一緒に暮らしていたのです。学校の先生だったアイダが、セルビア人の兵士から「あ、先生、お元気ですか?息子さんも元気ですか?」というような声をかけられる様子も映画の中では描かれています。しかし紛争がもたらしたものは、お互いの民族を憎むことであり、相手の民族をこの世から消し去ろうとまでしてしまう、止めることのできない憎悪感情です。

紛争が終わった後、再び教師として学校に戻ったアイダの目には輝きはありませんでした。その学校には、夫や我が子を奪ったセルビア人の兵士達の子供や孫が通っているのです。その描写は、日常が戻っても、愛する家族がいない事実、あの紛争の無意味さが、アイダの心を空虚なものにしているようでした。

皆さんにもぜひ観てほしいので、詳細を語ることは控えますが、本当に今、観てほしい映画です。それは2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻が今も続いている、という現実があるからです。

日常生活を破壊する戦争は、そこにいる人々の夢を奪い、愛を引き裂き、命を奪うのです。ニュースで繰り返される映像に誰もが心を痛めています。

 

先日来、校長室前のボードに、平和のメッセージを貼れるようにしています。皆の思い溢れる言葉が、書いた人の名前入りのふせんで貼ってありますので、ぜひ、これも観に来てほしいのです。そして、一人でも多くの人に自分の思いを書き残してほしいと願っています。

来週あたりには、このボードを本来の使い方に戻そうと思っていますが、こうしてメッセージを書くという行為は、書いた人の平和への思いを表すものであり、それぞれが自分の思いを、心に深く刻む瞬間を生むものでもあります。皆さんのメッセージを読むと、この戦争に当たっても、啓明学院の生徒たちが本当に心を痛めていることが伝わります。一日も早い終結を、共に祈りましょう。

 

この戦争もボスニアの紛争がそうであったように、実に複雑な歴史がもたらしたものであり、我々が理解することは一筋縄ではいかないことです。ロシアとウクライナのどちらにも自分たちの主張があり、正義があるからです。

ただ、強い者が弱い者を叩き、ジェノサイド、つまり民族憎悪が相手の存在を消し去ろうとまでエスカレートすることは絶対にやめてほしい、と声を上げ続けていかなければならないのではないでしょうか。

ウクライナの戦争について、経済がこれほど入り組んだこの時代に、グローバルなこの時代に、こんなことが起こるとは思っていなかった、という声を聞きます。もちろんそうならなかったほうがどれほどよかったでしょうか。

マクドナルドがある国同士は戦争をしない、というフリードマンという人の言葉が正しければよかったのに、と思います。けれども、そうはなりませんでした。

 

先ほど紹介した映画「アイダよ、何処へ」とは日本語のタイトルですが、原題は「クオ・ヴァディス、アイダ」といいます。「クオ・ヴァディス」とはラテン語で、「あなたはどこへ行くのか」という意味です。

これはイエス様が十字架の出来事の前に、弟子のシモン・ペトロより投げかけられた言葉をモチーフとしています。イエス様の一番弟子だったシモン・ペトロさんは、イエス様にこう問いかけます。

 

「クオ・ヴァディス ドミニ」 ドミニは「主よ」という意味です。

「主よ、何処へ行かれるのですか。」

 

皆さんで一緒に聖書を開いてみましょう。新約聖書 ヨハネによる福音書13章36節です。ちょうど「ペトロの離反を予告する」と小見出しが出ているところでもあります。

この後、イエス様が十字架に磔になるストーリーが進みます。そして、その後に復活の出来事があるのです。その十字架の出来事の直前、不安な中にいる弟子が「主よ、何処へ行かれるのですか」と訊いているのですが、実はイエス様、この前にとても大切な教えを弟子達に伝えているのです。同じページの13章34節をみてください。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

このとき、イエス様の語られた新しい掟は、今に生きる私たちも語りかけられています。命が軽んじられることのないよう、平和を私たちが大切するよう、感情に流されて分断を受け入れることがないよう、憎しみに溺れることのないよう、イエス様は私たちに語っておられるのです。このイエス様の教えを、私たちも心に刻みましょう。

 

 

教会の暦では、来週が受難週と呼ばれる一週間になります。来週の金曜日が、イエス様が十字架につけられた受難の日です。そして、次の日曜日、4月17日がイースター、復活日になります。このような時期を目前とする今、受難の出来事の前にして、聖書にはこうして互いに愛し合うことの勧めが記されていることを覚えたいと願います。

今年の年間テーマ聖句は「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(新約聖書 ヨハネの手紙 第3章18節)です。かけ声だけに終わることなく、一人一人が、その場その場で、この言葉を実践する我々でありたいと願います。特に今年一年、心がけていきましょう。私たちが互いに愛し合うことは、イエス様からの大切なメッセージだからです。

 

いよいよ新入生が入学し、皆、一つずつ年を重ねて、新年度を迎えています。今年も皆さん一人一人がこの啓明学院を舞台に、安心して過ごし、健康で、チャレンジ精神を思いっきり発揮してほしいと願っています。

そして気持ちのよい挨拶が校内に響き、お互いを大切にする雰囲気の中、一人一人が自分らしい歩みを思いっきりできる、啓明学院でありたいと強く願います。

このような時期だからこそ、平和への思いを互いに心に刻みましょう。それが、神様が望まれる啓明学院のあるべき姿であり、これまで綿々と受け継がれてきた伝統です。

その伝統の継承者としての今年度の歩みが始まります。皆さんの充実した学校生活を本当に楽しみにしています。

よい一年としましょう!

 

指宿 力

 

映画「アイダよ、何処へ」公式サイト こちら