KEIMEI GAKUIN TOPICS BLOG

校長コラム

聖書の言葉を規矩として 中学礼拝でのメッセージ

2023年7月5日

 

啓明学院は〇〇な学校です、啓明学院は〇〇する学校です。皆さんなら、どんな言葉を入れるでしょうか。

 

僕もいろんなところで学校についての話しをするので、その時、その場所に応じていろんな表現をします。そこに学校が大切にしていることがはっきりするので、こういったことについては力を入れて話をします。そんな中、今日ここで、まず皆にもう一度はっきりと示しておきたいことを伝えておきます。

 

それは、啓明学院は挨拶する学校です。啓明学院は元気な挨拶が飛び交う学校です。ということです。

 

なんだ、そんなことか。当たり前だし、もうちゃんとやっていますよ、という生徒もいることでしょう。啓明で学校生活を送る中で、挨拶の習慣が染みついている人もたくさんいますね。

 

廊下で、階段で、すれ違うときに、皆から元気な挨拶をもらって、僕もますます元気になっています。でも友達としゃべりながら、気付かず通り過ぎている人、そもそも挨拶習慣がまだ身についていない人もいるのも実際です。

 

挨拶は人間関係の基本です。挨拶ができる人は信頼されます。挨拶は安全を創りだし、場を明るく健康にします。なぜなら挨拶は気付きの第一歩だからです。気付きのない人は、挨拶をするべき相手がいることにも気付きません。気付きのない人は、周りの人や環境がどうなっていても気にも留めません。つまり気付きがない人間は、まさに自己中心的な生き方を突き進んでしまうのです。それでは、神様の示す人間の幸福とはまったく違った道に進むことになってしまいます。

 

挨拶すべき相手がそこにいる、と気付く力は、自分のことだけでなく、他者のこと、世界のことを気に掛ける人間性を自分の中に育んでくれます。挨拶をしてもらった人は、自分の存在を認めてもらえた、と嬉しくなります。

 

みなさんの中には、小学生の頃、学校見学で啓明に来て、在校生から挨拶をしてもらって嬉しかった人もいるでしょう。それは、外から来た自分なんて誰も知らないよな、と思う不安な気持ちが、「こんにちは」の一言であっという間に吹き飛んでしまったからです。そして、その安心感が、自分もこんなところに来たいな、と思わせてくれる大きな魅力になるのです。

 

僕は、先生達にも、挨拶をしっかりしようと、いつも声をかけています。挨拶が大事だと分かっていても、その時、その時に忙しかったり、自分の都合があったりしますが、朝一番のおはようございます、昼のこんにちは、そして帰るときの、さようなら、お疲れ様でした、という互いの言葉がけは、啓明学院の先生達が互いを大切にし合って、尊敬し、協力し合うためのとても大切な潤滑油にもなるからです。

 

中1の生徒もそんな啓明の一員となったのですから、意識して挨拶をしっかりしていきましょう。そして2年生、3年生も後輩のよいお手本になることはもちろん、自分自身を正しく作り上げていくためにも、しっかりと挨拶をしていきましょう。

 

挨拶のこつは「まず自分から」です。自分から挨拶をすること。常識的には、目上の方には先にするのものであることも覚えておきましょう。挨拶が上手になると、相手の名前を呼んで挨拶できるようになりますね。

 

たとえば、教頭先生、おはようございます。見学の方ですか、こんにちは。〇〇さん、さようなら。

 

そして苦手な人にこそ、避けずに挨拶をすることも大事ですね。あの人に会うのはいやだから、姿を見かけたら遠回りしてでも避ける、ということであればいけませんね。

 

これまでの先輩達が作り上げてくれた挨拶の伝統を、今の君たちが任されています。その責任をしっかり果たしてほしい。そして互いに気づきを持って、挨拶する学校、啓明学院を一緒に作り上げていきましょう!

 

さて先日、名手先生が礼拝のお話しを担当された時に選ばれた聖句がとても心に残りました。それは「どのようなときにも、友を愛すれば 苦難のときの兄弟が生まれる。」という箴言17章17節の言葉です。皆にも是非心に刻んでほしいな、と思う言葉でした。そしてこの旧約聖書の箴言とは、いましめとなる格言、という意味もある、短いけれど深いメッセージが詰まった言葉の集まりです。こうした箴言の言葉を覚えておくと、心を励ましてくれたり、自分自身に指針を与えてくれたりするものです。

 

少し前、『サイモン・バーチ』という映画がありました。映画の主役は、生まれながらにして体の小さな12歳の男の子です。身長96㎝ということです。サイモンは、お父さんお母さんには可愛がってもらえなかったけれども、お父さんのいないジョーという男の子と一緒に、野山を駆けまわったりして遊びまわる一方、聖書の知識に秀でた少年でした。

 

映画の中では、いろいろな事件がある中、サイモン少年は、自分が小さく生まれたのは神様の計画だ。これには意味があることなのだ、というとても強い自己肯定感を持つ子供として描かれています。そしてサイモンは、それを根拠に、聖書の言葉をおいて自分を馬鹿にしたり、批判するものに徹底的に向かうのです。

 

たとえば箴言19章21節にある「主の御旨」とは神様の計画、という意味です。だから現実に存在する自分は神様の計画の一部である、と言い切るのです。他にも箴言にある格言をたくさん覚えていて、彼に降りかかる難問にその聖句で答えて向かうこともある、という作品でしたが、パッと口を突いて出るようになればたいしたものですね。

 

サイモン・バーチを演じたイアン・マイケル・スミスさんは、この映画にしか出ていないようで、マサチューセッツ工科大学に進んだ、という情報があるくらいですが、とても心を打つ演技をしていますので、機会があればぜひ観てほしい映画です。

 

箴言の言葉が主人公を励まし、力づけ、自信をもたらし、強い自己肯定感を与えているということに倣い、私たちも箴言の言葉を心に備えたいと思います。そして是非、皆にも箴言はもちろん、それ以外でもいいので、聖書の言葉から、自分自身の行動や言動の規範を作ることに挑戦してみてほしいのです。それが自分の規矩となるからです。規矩とは規準、模範となるものと、ものさし、という意味です。

 

僕が最初にこれを自分のものにしようとした聖句は、マタイの7章にある「人を裁くな。」という言葉でしたが、箴言にも10章以降は短いので覚えやすく、ピンとくる言葉がたくさんあります。そのような聖書の言葉から、自分自身の行動や判断の基準となる言葉を探してみましょう。それは自分が物事を計り、正しさや善悪についてブレない人間性を築く土台となるはずです。みなさんが心に持つ、そのような基準が規矩です。皆さんには規矩を持った人間になってほしい。そうするとこれはする、それはしない、ということが自分の中で明確になるからです。

 

しかし何を根拠に自分の規矩を持つか、ということが大事です。自分の感覚だけでは、その物差しはその時々で伸び縮みしたり、曲がったりするからです。心に刻む言葉の歴史性、意味深さ、尊さが規矩の価値になります。ですから皆さんには、まず聖書における言葉を自らの規矩としてほしいのです。

 

そして心に規矩を持つ人間というのは、それはすなわち物事の判断基準を自分以外に持てるということです。物事の判断基準を自分以外に持てるということは、自分に対する謙虚な心と知的な探究心がなければできません。

 

そしてその謙虚さや知的な探究心は、服装に現れ、言葉遣いに現れ、振る舞いや食べ方や飲み方に現れます。心に揺るぎない規矩を持つということは、自分に誇りを与えてくれるからです。

 

逆に、心に揺るぎない規矩を持たない人間は、裏切りやだし抜きを平然と行い、自分の得になることのために立ち回ります。そのような人を神様は選ぶでしょうか。また、そのような人が、神様の御心を実現する世界を創ろうと思うでしょうか。否、ですね。

 

もう一度、今日、冒頭に読んだ聖書の箇所を開けてください。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言1章7節)とあります。

 

主を畏れるとは、神様を怖がることではなく、尊敬し、祈りをささげる方としてしっかり心に留めることです。そして、それが知恵の初めだと聖書の箴言はいうのです。知恵の初めということは、人間らしい生き方の初めであり、人と人との友好的な関係の初めでもあります。

 

そして「主を畏れる」ということの反対は「自分を神とし、自分の上に権威を認めない」ということでしょう。自分が神になり、自分の了見だけで他者を裁く。そのような姿が主を畏れない姿勢です。それはまた学ぶ姿勢がない、ということでもあるでしょう。そのような学ぶ姿勢のなさは、まさに学ぶ力のなさであります。そのような傲慢な姿勢は私たちの成長を拒むものであります。

 

自分の足りないところを知り、神様を覚え、その前に立たされるものとして謙虚に歩む姿勢こそが、私たちを真の成長へと導いてくれるのでしょう。日々の歩みの内にそれを覚え、のびやかに成長するものでありたいものです。

 

そして主を畏れることがその始まりであることを覚え、その主の御言葉である聖書の言葉を規矩として自らの内に持ち、皆さん一人一人が神様と人に愛される、歩みを進めて欲しいと願っています。きっとそれはあるべき啓明生の姿となることでしょう。私もそうありたいと歩んでいきたいと願います。皆さんがどんな言葉を規矩とするか、また聞かせてくださいね。

 

指宿 力