KEIMEI GAKUIN TOPICS BLOG

校長コラム

100周年記念館 竣工式のメッセージ

2023年9月26日

三田市に関西学院が持つキャンプ場、千刈キャンプがあります。

 

1955年に開設されたこのキャンプ場に、私は小さい頃から度々訪れていました。父親が長く牧師をしていた甲子園教会は、毎年夏に子供から大人まで参加するキャンプをそこで行っていたからです。

 

私にとって大変思い出深い、その千刈キャンプで、この夏に関西学院に連なる中の4つの学校、関西学院高等部、千里国際、帝塚山学院、そして本校の生徒たちが集うキャンプが行われ、私も久しぶりに行ってきました。

 

今もこのキャンプ場には、昔のままの施設があります。せっかくなので、小さい頃に一緒に来ていた幼なじみらに写真を撮って送ろうと思い、良い場所がないか探してみました。小学1年か2年の頃に皆で写真を撮った1号キャビン、それは木造の小さなキャビンですが、それをパチリと写し、画像を送ったところ、幼なじみたちと、ほぼ50年前の思い出話に花が咲きました。

 

他にも当時のままの施設はいくつか残っています。かつてメインの施設として使われていたホールは、その役目を近代的な建物に譲ったものの、今も現役で使われています。

アウターブリッジホールと名付けられたその建物は、かつてキャンプ場に着くと、キャンパー達がまずここに入れられて、大学生リーダーに毛布のたたみ方を厳しく教えられた場所でした。建物横にある厨房で西浦のおっちゃんと呼ばれていた方が作られた食事をいただく食堂としても使われていました。小学生の頃は体育館のように感じたその場所も、今は教室二つ分くらいの広さに感じます。こうした感覚のズレはビックリするものです。

 

そのホールの名称、アウターブリッジというのは人の名前です。

この方、アウターブリッジ先生は、戦前、関西学院に赴任された宣教師で、理事として原田の森、今の王子公園にあった校地を、大学昇格を目指して現在の上ヶ原に移転することに尽力なさいました。戦後には関西学院大学学長、関西学院理事長、院長、そして復興された神学部の最初の学部長を務められました。ちょうど千刈キャンプが開設された時期に、アウターブリッジ先生は院長を務めておられたので、敬意を込めて「アウターブリッジホール」と先生の名前を付けられたのでしょう。

 

私はアウターブリッジ先生が母国カナダに帰られてから生まれていますので、お目にかかったことはないのですが、先生を大変身近に感じる出来事があります。

 

私が関西学院大学の学生だった頃のことです。ある日、父が大きな箱を持って帰ってきて「これをお前にやる」と言うのです。開けてみると、深いブルーの、かための生地で作られたコートでした。

父は「これはアウターブリッジ先生が着ていらしたコートだが、今のお前と同じくらいの背丈だったから、ちょうど合うと思ってもらってきた」と言うのです。アウターブリッジ先生は大学時代ラグビーの選手だったそうですから、がっしりしていたのだと思います。

譲ってくださったのは長久清先生ですが、この方は長久先生のお爺さんです。父が学生時代からお世話になっており、私も小さい頃、お宅に連れて行かれたりしていました。

 

いただいたそのコートは、ちょっと重たかったのですが、とても素敵なデザインで、出かけるときはよく着ていました。かっこいいね、と褒めてもらえることもしばしばでした。このコートを着ると、何だか関学の歴史をまとっているような気分にもなり、気に入っていました。

 

しかし、大学卒業前に、「自分が持っているよりは」と大学の先生にお渡ししたと思うのですが、今はどこにあるのか分かりません。アウターブリッジ先生は、戦後の日本人が困難な状況におかれていたことから、ご自身も質素な身なりを心がけておられ、本国から送られてくる食事や衣服もどんどん人にあげていたそうです。ですから、そんなに価値はなかったのかもしれません。

 

そんなこともあり、いまだに私はアウターブリッジ先生を勝手に身近に感じています。関西学院には意味深い建物や施設には、学院にとって大切な働きをされた方などの名前を付ける文化があります。その名前に出会うことによって、こうして記憶を呼び起こされたり、歴史の中に活かされていることを心に留めたり、自分の人生をふりかえる機会となることも考えてのことなのでしょう。

 

この度の啓明学院100周年記念館建築に際し、その計画に私も参加いたしました。長い時間をかけ、竹中工務店の皆さんと会議を重ねてまいりましたが、建築のプロフェッショナルである皆さんとの時間は、私にとっても貴重な経験であり、新しい財産をいただいた思いです。ありがとうございました。

 

設計の奥村さん、渡邉さんを始め、統括的な働きを担ってくださった田井中さん、川本さん、設備の安達さんなどは、ほぼ毎回来校していただくなどして大変お世話になりました。心を砕いて現場を担ってくださった松峯さん、杉田さんや岡さんを始めとする方々のお働きに感服しています。もちろんすべての方のお名前を挙げきれないくらい、多くの方々と会議を共にし、長い時間を過ごしました。皆さん、本当にありがとうございました。

 

この歴史資料展示のための企画や内装を担ってくださった株式会社ヤンの皆さんには、私の想像力を遙かに超えるアイデアをたくさん出していただき、展示を整えてくださいました。感謝しております。

 

 

また100周年記念サイトのデザインと運営はエブリさんに担っていただきました。

100周年の情報発信の場となったともに、懐かしい啓明グッズなどの寄贈品や寄附の窓口として大きな力になっています。

 

備前焼作家の大石橋先生にお願いしたレリーフは、先週末に設置したばかりです。「おかえり」と付けられたこの作品が、卒業生が啓明に対して持っている懐かしい思いや、大切な絆を思い起こさせてくれるものになればと願います。大石橋先生には、今日、お越しいただいていますので、のちほど、この作品にかけた思いなどを私たちにお聞かせいただければと願っています。よろしくお願いいたします。

 

 

計画を進める中で、建物は100周年記念館という名称になりました。そして、3階ホールには何か相応しい名前を付けようということになりました。実は私にはこっそり持っていた案がありました。それは尾崎八郎先生の名前をいただいて、「ハチローホール」にしたらどうか、というアイデアです。エレベーターの行き先ボタンも、1階、2階、86階にしたら面白いのでは、などと夢想していたのですが、さすがにユーモアが過ぎるかと自制いたしました。

 

会議で隣に座ることの多い辻先生と、そんなアイデアも面白いよね、とちょっと盛り上がってはいましたが、そうした話しの中で出てきたもう一つのアイデアが、カブ先生のお名前です。

 

 

カブ先生は、カッブとか、コブ、コッブなどと表記することもあるのですが、今日はカブ先生と呼ばせていただきます。このカブ先生、ジョン・ボズウェル・カブ先生は、戦前から日本の様々な教会や学校で指導的な働きをされていたメソジストの宣教師です。

 

太平洋戦争の激化とともに、当時、日本にいた宣教師達はそれぞれ本国への帰国を強いられました。カブ先生は終戦後いち早く再来日し、関西学院の理事、パルモア学院の理事長に就任されました。他にも名古屋学院の院長代理、広島女学院と聖和大学の理事、神戸女学院の監査役なども務めていらっしゃいます。

 

カブ先生は戦後の動乱期に、日本キリスト教事業連合委員会のメソジスト教会の現地代表を務められたり、キリスト教主義学校の再建に大きな働きをされ、1948年に本校の第2代理事長に就任されました。

 

本校の60周年誌には、この理事長就任によって、学院の伝統であるキリスト教と英語教育を守り育てる上において重要な役割を果たした、とあります。また、その前年1947年のパルモア学院理事長就任時は、戦争の影響で、校名が日本名の神戸外国語学院であったものをもとのパルモア学院に戻されました。カブ先生は、新しい一歩を踏み出した時期に、その要職を担われた方です。

 

関西学院、パルモア学院、啓明学院、それぞれの学校が戦後復興の難しい時期を迎えたときに、信仰によって強く立ち、祈りを持って皆を率いられたであろうカブ先生のお名前を、この100周年記念館の3階ホールに付けさせていただくこと決定しました。これは、これから新たな100年を歩もうとする我々にとって心強く、意味あるものであり、何よりも相応しい方のお名前である、という幹事会の総意で、「カブホール」という名称にいたしました。

 

2002年5月に発行された関西学院史紀要第8号には、戦後すぐに関西学院の混乱の正常化を訴えるベーツ先生宛の手紙が掲載されています。その中にカブ先生の姿を見ることができます。

かつてベーツ先生のリーダーシップの下、一致団結していた戦前の学院を知る人々にとって、終戦後の状況は違和感のあるものであったようです。

 

その手紙には、独裁体制の当時の院長に対する厳しい批判が記されています。それとともに、アウターブリッジ先生がそのような状況で奮闘されていること、他の理事が口をつぐむ中、カブ先生は毅然と正しく振る舞っていること、また新制中学部で講師を勤められていたカブ先生の夫人が、少しも聖人ぶったところのない高徳な女性であり、メソジストの伝道に大変熱心であることなどが綴られています。

 

この手紙には、カブ先生がアルミニウムのプレハブの建物ができて、神戸に移るのを心待ちにしている様子も記されています。それはパルモア学院が米国南メソジスト教会から寄贈され、その後教室や事務所、宣教師館として使っていた「組立式ジュラルミンの事務所および校舎」のことでしょう。このプレハブ設置に伴い、校舎を持ったパルモア学院は、生徒数が増え、経営も軌道に乗っていったと、このパルモア学院の軌跡には記されています。こうした中にカブ先生の信仰に立った正しさと、何より日本のキリスト教主義学校が本来あるべき姿を取り戻し、その地で建物を建てていくことも神様に託されたご自身の務めであることの自覚を見る思いがします。

 

さて、この度、竣工を迎えた啓明学院100周年記念館は昨年11月1日に起工式を行い、建築が始まりました。

 

まず、もとあったボイラー棟を解体することから始まりました。その頃、日々変化する現場を写真に撮りためていくことが私の楽しみでした。授業や行事と並行して行われる工事によって大きな音が出ないように、注意深く丁寧に作業されている様子が、校長室の窓からも見えました。こういった生徒のことを思ってくださっていた心遣いにいつも感謝していました。工期を守りながらのことで大変だったと思いますが、いつ見ても整理整頓されている工事現場は、誇りを持って責任を果たすことはこういうことである、と私に訴えているように感じました。

 

昨年11月25日には定礎式を行いました。定礎式は少人数で行われましたが、この日、基礎として設けられた土台に、記念館のかなめ石として、つまり、なくてはならないキーストーンとして聖書を据えました。それはこの啓明学院が神様によって立てられたこと、そしてこの100年の間、聖書をこの学院がまさに羅針盤として歩んできたこと、そして学院に集う者が聖書こそが心を一つにする拠り所であり、力の源であったことを象徴したく願ったからです。旧新約聖書を建物の土台に組み入れていただきました。

 

 

この時、その聖書には理事長と校長の連名でこのような言葉を記しました。

 

 

時代を託されるスクールリーダーが

祈りと信仰によって常に正しく全体を導き、

神と人に仕える生徒を育てる使命を受けた啓明学院として、

教職員一同、心を合わせ、神の示す道へと歩みを進める決意を込めて、

この聖書を100周年記念館の礎としてここに埋める

 

 

この啓明学院やパルモア学院、もちろん関西学院も、その歴史を紡ぐ中で、難しい時期もあったとは思いますが、学校の推進力たる重い責任を担う方々が、聖書の言葉に聞き、懸命に祈り、神様の御旨を聞こうとする中に、進むべき道を与えられたことをこれからも引き継ごうとする決意を示すものであります。

またこれは、時代が移り変わり、人の入れ替わりがあろうとも、啓明学院がどうあるべきかという宣言でもあり、存在証明でもあります。そして何より、これからの歴史を担う人々も共有して心に刻んでほしいメッセージとして鎮めた聖書に書いていただいたのです。

 

 

今日、この礼拝式に際し、お読みいただいた聖句は、エフェソの信徒への手紙2章の言葉です。

この箇所の背景には、聖書の主役民族であり、旧約聖書においては神様から選ばれた民であるユダヤ人と、それ以外の人々、異邦人の区別が存在し、深い溝があったことがあります。旧約聖書に示された約束を守ることこそが救われる道であり、ユダヤ人はその道を歩むことこそが正しいとされていました。反対に異邦人はその約束を守っていない、救われない存在だったのです。

 

しかし、その異邦人に対しても、イエスは十字架の出来事を通して救いの道へと導き、さらに分裂していた両者を和解させ、敵意を滅ぼしたと今日の箇所にあります。このようなことから、異邦人伝道とも呼ばれる、聖書のメッセージが世界へと拡散する時代が進んでいくのです。それは普遍的な救いと罪の許しを根幹とするイエスの教えが、多くの人々を救い、励ましとなっていく歴史の始まりでした。

 

今、私たちはその教えを新約聖書の言葉として、読み、聞くことができています。それは平和の福音、安らぎを与える普遍的なイエスキリストの教えです。その平和の福音を土台として、さまざまな違いを持った人々が招かれて一つとされ、その上に神の建物を建てました。それが教会であり、キリスト教主義学校でもあるのです。

 

その神の建物たる啓明学院に、今、こうして私たちは繋がっています。その建物の土台に、なくてはならないかなめ石として、私たちは主イエスキリストご自身を据えている証しとして聖書を鎮めたのです。

 

かつて聖書の時代にさまざまな壁を隔てるものがあったように、今も、注意しないと互いを分断しかねないものがあります。それは意見の相違であったり、出身学校の違いであったり、さらにはクリスチャンであるかどうか、ということも、分け隔てを生む、壁となることもあるのです。

 

もちろん信仰告白をしたクリスチャンは、かつてアウターブリッジ先生やカブ先生がそうであったように、一部の者の利己的な理由によって、全体が神様の御旨から離れようとするような事態に陥りそうになったときは、その信仰によって警鐘を鳴らし、祈りを持って正しい道へと導く勤めがあるでしょう。それこそが委ねられたミッションでもあるはずです。

 

それとともに、主イエスご自身がユダヤ人と異邦人を、神様の御心によって一つにされたように、今日に生きる者達一人一人が、互いがさまざまな違いを持っていることを尊重し、理解する中で、協力して、主の建物であるこの啓明学院が神様の御旨に適う学校として歩んでいけるようにすることが、何より神様に託されている使命ともなるのではないでしょうか。

だからこそ、いつも常に聖書に聴き、祈り、互いの欠けた部分を補い合い、キリストにおいて心を一つとし、この神の建物である啓明学院を、神様の御心に適う学校として守っていかなければなりません。

 

10月18日には100周年記念式典を行います。第一部では辻院長より礼拝奨励を受けます。第二部では尾崎八郎先生にメッセージをいただきます。そのような中に、再度、啓明に連なる者が銘々に委ねられたミッションがあることを自覚し、キリストにおいて心を一つにするということを知る機会となるよう心より願っています。

 

ここを学び舎とした多くの卒業生や今の在校生がそうであるように、これから新たに加わっていくであろう未来の入学生達とも、神様から委ねられた命をどのように使っていくことが神様の御心に適う生き方であるのかということを真剣に考え、議論し、与えられた力を鍛え、互いを大切にしあう学校が啓明学院であることを世界に証しして行かねばなりません。

 

この100周年記念館建設は、これからの新たな100年も変わらず、その使命を果たしていこうとする決意の表れであると言ってよいでしょう。それは聖書をこの建物のかなめ石として据えた、つまりかなめ石を主に置いたこの学院が今後も果たしていかねばならない責務を今一度胸に刻むことでもあります。

 

 

今日は始めに讃美歌451番「くすしきみ恵み」を皆さんとともに歌いました。

原題はアメイジンググレース、最も知られた讃美歌の一つです。

 

驚くほど大きな神様の恵み、と題するこの讃美歌に歌われる、神様の大きな、大きな愛が、

いつも私たちを包み、励まし、導いてくださっていることを深く心に留め、

その恵みの一つの形として、今日私たちにこの建物を与えてくださったことを皆と感謝の思いを共有したいと願います。

 

それでは終わりに一言お祈りいたします。

 

主なる神様、今日、こうして啓明学院100周年記念館の竣工の時を迎えることが出来ましたことを感謝いたします。これまでこの建築に関わられた方々のお働きと労をどうぞあなたが覚えてくださいますようお願い致します。

 

今日の日を始まりとする100周年記念館がこれから啓明学院の歴史の扉を開く場所であり、人々が集う憩い場であり、すべての人に愛される場所となることができますよう、あなたのお守りがありますよう祈ります。

 

そして来月に100周年の記念の時を迎える啓明学院がいつもあなたの御心に適う学校であることができますよう、キリストによって一つとなる我々となさしめてください。

 

共に祈る、お一人お一人の内にある祈りをもあなたが覚えてくださることを信じます。

その祈り願いを合わせ、この祈りを尊き主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

指宿 力